「少女とバラ」における
試験的な表現技法の一考察


■ 印 象 ■

本来「少女とバラ」は一輪のバラを手にしたとき、ふと幼い頃の、ちょっと切ない思い出を回想しているシーンを想像して描いたものです。
少女の繊細な心を静かに見守る、そのような思いを表現できればと、この構図を考えました。

さて、これが一通り出来上がったとき、妙なことに気がつきました。
それは、普段に私が描いているものとまったく雰囲気が違うということです。

もちろん、これを描くにあたっては、私自身の脳裏に否定するまでもなく、「イレーヌ嬢」「読書」などの有名な絵画のイメージが取り込まれていることは、ご覧になられている皆さんも承知されていることと思います。

しかし、違和感はそれだけではありません。
実は、この違和感。私自身か作為的に作り上げたものなのです。
それが、思いの外、強く現れているようなのです。

■ 構図は同じでも主旨が違う ■

「少女とバラ」タイプA

「少女とバラ」タイプB

この二つの絵を比較してご覧下さい。
一見すると、なんだ同じ絵じゃないかと、思われる方もいらっしゃるかもしれません。
これは、あえてまったく同じ下絵を使用し、その人物の向いている方向のみを変更させたものなのです。
ですから、照明や背景なども基本的には同じです。

違うのは、人物の向きだけなのです。

よくご覧になれば、印象がかなり異なることに気がつかれることと思います。
「光の方に向いているかどうかで、違うのだな」と考えられていらっしゃる方も多いと思います。
しかし、私はこの二つの絵の印象の違いは、それだけが理由であるとは考えていません。

「少女とバラ」のオリジナルは、前記の通りの意図からなっています。
そして、私は明記したとおり、そのイメージを自らの考えで意識的に構築しました。

つまり、内省的な思いを演出するために用いたのは、照明を逆光にする、光を背にするということだけではないのです。
人物が左下を向いていることにも、その理由があると考えたのです。

言い換えれば、タイプAとタイプBは、その下絵はまったく同じといってもよい筈なのに、そのコンセプトはまったく別の絵であるということになります。

■ 既成概念 ■

この考えに納得されない方は多いと思います。
では、試しにタイプBの画像をCGローダで開き、左右を反転してご覧になってみて下さい。
おそらく、印象は異なるのではないのかと思うのですが。

それでもよく分からないと思われる方、いったん頭の中を空白にして下記のイメージを想像してみて下さい。

明日を夢見る少年が、緑の茂る大きな樹の下で青空を見ている。

いかがでしょうか?
左に樹を置き、少年は左下から右上を見上げていませんか?

もっとも、このように想像されなかったからといって何かがあるわけではありません。単なる確率の問題でしかありませんので。

■ 右利き社会と既成概念 ■

基本的に、これらは社会習慣から修得されたパターン的なイメージなので、これに本来意味はないと思います。
ですから、右利き、左利きで、多少「しっくりくる」イメージは異なるのが「本当」なのかもしれません。

分かり易い例えを揚げれば、右利きの場合は斜線を引く時、右上・左下の方向の方が引きやすいでしょう。
当然、左利きですと左上・右下となりますね。
右利きが絶対数において「一般的」であれば、私たちの「視覚」はその方向の線に対して「安定」を感じることとなる訳です。

しかもそれは世代を越えて蓄積・固定化されているため、ある部分では強固になっているところもあるかもしれません。

しかし一方で、潜在的な左利きの方は相当数いらっしゃいます。
私自身もどうやら元は左利きのようです。表面的には完全に右利きですが、ちょっとしたことで右利きのひととは違う行動をとることが往々にしてあります。
ですから、結果的に「確率」の問題となると思うのです。

また、現在では私を含め「絵の基礎素養」の無い人が絵を描き、発表する機会が増えましたので、尚更それに対する「既成概念」は薄れていると思います。
もちろん、動画の普及も「左右」感の意味の崩壊を促していることは言うまでもありません。

■ 描画におけるルール? ■

しかし一方で、例えば、多くの場合、絵のサインや広告などでの社名などは右下という場所を「安定の位置」としているのは事実です。
また、運命的な、あるいは強いインパクトなどを表現するときは多くの場合、中央の少し上に対象物を配置する構図も頻繁に目にします。

ですから、「そのようなものは、単なる既成概念だ」と思われるのは正論だとは思いますが、事実として我々はそのよう画像的ルールに従ったものを日常に目にしている以上、誰もがその影響を受けていることは否定できないと思います。

しかし逆に、それらを否定する「ちょっと特別な」形をとるとき、ちょっと違った印象を演出できるという結果を想像出来るわけです。
また、そんなものを意識せずに、純粋に「ちょっと特別な」ものを描きたいと考えて想像されたものも、結果として同じということも多いと思います。

結論としては、知らないよりは知識を持っていた方が、「楽」であり、遠回りをすることなく望むイメージを想像することができるのでは、と思う次第です。

■ 先入観 ■

絵を描かれていらっしゃる多くの方は、まず、イメージを思い浮かべてからラフ等を描かれておられると思います。
絵に左右など関係ないと思われていらっしゃる方、さて完成された絵を左右反転してみて下さい。
あなたが想像されていらっしゃった絵がそこにあるでしょうか?

おそらく、何となく違って見えることと思います。
これは「引っかけ」で、本来の意味とは違いますが、それでも、これは作者自身の先入観がそのように思わせているのかもしれません。

「先入観」「既成概念」というものを否定したいという思いはだれしもあると思います
そこで次の画像をご覧になって下さい。

「少女とバラ」タイプC

これはタイプBを油絵風にレタッチしたものですが、多くの方がこの印象をタイプBより悪く感じられることと思います。
さて、もう一度考えてみて下さい。タイプCはそんなに酷い作品でしょうか?

もともとは油絵の画風を意識して構成された絵です。構図的にはそれほど違和感は無いと思います。
しかし、事前にタイプBを見た後では、タイプCを純粋に単一の作品として見ることが出来ているのでしょうか?
もともと油絵の構図を意識して描かれたものです。最終作品がタイプCであったとしても不思議ではありません。タイプCのみが作品として紹介されていたかもしれないのです。

■ 既成概念を上手に利用する ■

私たちは、私たちが想像するすべての情報は、日常に得た様々な情報から成り立っています。

言葉で意思伝達をする場合、双方が共通の言語とその概念を共有していなければなりません。
絵もまた同じだと思います。
つまり、作る側、見る側にある程度の共有できる概念が無ければならないと思います。
そして、その一つが日常から得られた「既成概念」であることは否定できない事実であろうと思います。

絵のイメージの表現は「先入観」「既成概念」を否定して成り立つものではないと思います。
であれば、あるいは率先して利用するもの一つの方法かもしれませんね。

1999年9月20日

場次 東風